あなたの知らない戦史シリーズです。これは廃刊になったソノラマ文庫の「朝鮮戦争空戦史」にも紹介されいましたがここまで詳しくなかったと記憶します。性能では劣るパンサーを巧みに操った海軍操縦士の腕の方が上だったということですね。ロシア人がMiGに乗っていたことは前線では知られていて、不時着したロシア人パイロットを捕虜にしようと米軍が近づくと別のMiGがこのパイロットを射殺したということです。
A Secret for 40 Years: Navy Jets Battled Russian Jets Siberian Snow 40年間秘密になっていた米海軍ジェット機対ロシアジェット機編隊の交戦記録
1952年11月18日午後のこと、ネイヴィーブルー塗装のジェット機の4機編隊が空母USSオリスカニーから日本海を覆うシベリア低気圧の中へ発進した。同空母は空母3隻含む25隻の任務部隊77の一部で北朝鮮の橋梁他を空爆していた。その日早くは中国、ソ連からの補給物資が集まる場所で国境線近くのHoeryongの物資集積基地を空爆していた。
4機はF9F-5パンサーで雪嵐で視界500フィートまで下がっていたが戦闘航空哨戒(CAP)に当たった。艦体の航空捜索レーダーは有効半径が100マイルしかなく、ソ連にはIl-28ジェット爆撃機がありその距離なら数分で到達し、現にその姿が写真に収められていた。ソ連や中国機が空母部隊を襲う事態は発生していなかったが、奇襲攻撃をCAPで予防するに越したことはないと思われていた。
パンサー編隊が哨戒パターンで高度16千フィートを飛行中に報告が入った。敵味方不明数機が現在の地点から83マイル北で探知され、ウラジオストックの方向から飛んでいるというのだ。
海軍戦闘飛行隊VF-781所属の四機は迎撃コースをとった。飛行機雲を視認しソ連軍7機が高度40千フィートを飛行中で金属製胴体が光を反射していた。それはIl-28爆撃機ではなく、MiG-15戦闘機編隊でF9F-5は後期型だったが時速70マイルも上回る性能を有する相手だった。
すると編隊長クレア・エルウッド大尉の乗機で燃料ポンプが作動不良となり、空母に呼び戻され、ウィングマンも援護で離脱した。ロイス・ウィリアムズ大尉とデイヴィッド・ロウランド中尉の二機で優勢なソ連戦闘機編隊の7機に立ち向かうことなった。
その後に発生した事態はその後40年間極秘にされたが、2013年にロイスがFlight Journalのトマス・マケルヴィーの取材に答えて明らかになっている。
1950年11月からソ連のMiG-15が米戦闘機と朝鮮上空で交戦していた。ただし、各機は必ず中国国内基地から発進し中国あるいは北朝鮮部隊として交戦していた。公式にはソ連軍は参戦していないことになっており、ワシントンもこの虚構をわざわざ暴いて朝鮮戦争をエスカレートするつもりもなく、交戦はその結末をもとめていた。
ソ連戦闘機は米偵察機を数回にわたり撃墜していたし、米軍は国境近くまで進出しソ連空軍基地を実際に攻撃した事例が数回発生していた。だが一般にソ連領内に配備した戦闘機部隊が戦闘に加わることはなかった。
米海軍パイロット二名がソ連戦闘機に高度16千フィートで接近すると高空を飛ぶジェット機編隊は方向変換で基地に戻るように見えた。だがその後に編隊は二つに分かれ、4機からなる小編隊が米戦闘機に向かい10時方向から降下を開始しながら機関砲の弾丸を発射してきた。
ロイスは機体を激しく旋回させ編隊最後のMiGの後方につき、機関銃射撃で同機が炎に包まれるのを見た。だがロウランド機の機関銃の弾丸がつまった。ロイスの撃墜をガンカメラで撮影しようとロウランドはMiGの尾部を飛び、ついにMiGは海中に墜落した。
ウィリアムズ大尉にはまだ6機のMiGが残っておりドッグファイトは20分も続いた。後退翼のMiGは直線翼の米機より速度も操縦性も優れていた。だがF9Fには伝説になったほどの頑丈な機体構造があり、高速発射20mm機関砲4門を備えていた。MiGには23mm機関砲二門と強力な37mm砲一門があったがいずれも発射速度が低く精度も敏捷な戦闘機相手では不足気味だった。
ウィリアムズ大尉はフルスロットルのまま攻撃してくるMiGの内側を旋回しながら短めに射撃した。当時26歳の大尉はミネソタ出身で射撃訓練では高得点だった。素早く編隊の先頭機とウィングマンに20mm弾丸を浴びせると旋回してその場を離れ、二機は炎に包まれ、四機目のMiGにも大損害を与えた。
だが別のMiGが乗機の尾翼に銃弾を浴びせ機体や主翼、エンジンに命中して損傷し、油圧系統をやられた。パンサーの方向舵とフラップが反応せずエルロンはわずかに動くだけだ。そうなるとパンサーは唯一残った水平尾翼の昇降舵を使って回避行動をするしかない。
大尉は下方の雲に向かい降下を開始したがMiG-15の一機が追いかけてきて機関砲を発射した。ロイスは昇降舵で機体を上下させながら弾丸を避けた。だがウイングマンがse扇動するとソ連機はひきさがったが、なんとロウランド機の機関砲は弾丸がつまったままだった。ロイスは損傷した自機の降下をなんとか止めたがわずか海上400フィートで射出脱出には高度が低すぎた。
大尉は自機をオリスカニーになんとか帰還させた。途中で敵機と誤認され米艦から対空砲火もあびたが、生命の危険につながる日本海での着水は御免だ。減速できず時速170マイルで接近するパンサーは安全に制御できなかった。オリスカニー艦長が機転を利かせ風上に角度を付けて操艦してくれたためロイスはテイルフックを空母の三番ワイヤーにひっかけ半破壊されたパンサーは停止した。整備員が機体に263か所の命中箇所を見つけ、機体は利用可能な部品どりの後海中に投棄された。
巡洋艦USSヘレナのNSA情報班がソ連の無線交信を傍受しておりウィリアムズ大尉にMiG編隊の接近を警告しながら同時に三機が撃墜され、四番機が損傷しヴィクトル・ベリヤコフ大尉がソ連領内で墜落した内容を受信していた。35分間の小競り合いでロイスは朝鮮戦争開始後のパンサーパイロット全体の撃墜数と同じ数のMiGを一人で打ち落としていた。
ウィリアムズ大尉はある提督から今回の特筆すべき功績を決して口にしないよう釘をさされた。米国とソ連は公式には交戦状態になくNSAによるスパイ活動でソ連を監視している事実も知られてはならない。だがロイスの功績は埋もれたままにはならなかった。一か月後にソウルへ呼ばれ、大統領選に当選したドワイト・アイゼンハワーと飲みながら航空戦の実態を話した。本人によると大統領の勧めるままスコッチに手を出したことは一生後悔するとのことで、本人はいつもはバーボン水割りを飲んでいたという。
1990年代に入りロシアも情報の機密解除をしウラジオストック付近での航空戦で死亡した四名の氏名を公開した。これでウィリアムズもやっと秘密の誓いから解放された。
ウラジオストック上空のMIG対パンサーの衝突以降米戦闘機がロシア戦闘機を撃墜した事例はないが、米ソの空中対決はその後も続き、1953年にはF-84サンダージェットがチェコのMiG-15にボヘミア上空で撃墜され以後1970年までに米輸送機、偵察機十数機がソ連戦闘機やミサイルに撃ち落されている。■
Sébastien Roblin holds a master’s degree in conflict resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring
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