歴史のIF(3)です。まだICBMが戦力になっていなかった1950年代-1960年代初頭は有人爆撃機が飛び回るという構想だったのでしょう。米空軍も被害は覚悟でソ連空軍力をまず除去するつもりだったようですね。ただし放射性降下物の被害などは考慮外だったらしく壮大な破壊絵図を想定していたはずです。
This Was America's Secret Cold War Strategy to Nuke Russia Back to the Stone Age 冷戦時の核戦争計画はロシアを石器時代に戻す構想だった
May 30, 2017
- 冷戦が核戦争になっていたら米国とソ連両国は完全に廃墟になっていたはずだ。
- ロシアのどの都市が破壊対象だったのか、その理由がわかってきた。米政府が1950年代の戦略空軍(SAC)による目標リストを開示しており、それによると米国には爆撃機、ミサイルで共産圏全般を核攻撃する意図があったのがわかる。
- 「SACはソ連圏で東ドイツから中国まで都市1,200か所を目標とし、優先順位も決めていた」とNGO団体国家安全保障アーカイブが解説している。同団体は機密解除文書の開示を請求した。「モスクワ、レニングラードが優先目標第一位第二位だった。モスクワには179か所の指定爆撃地点(DGZ)があり、レニングラードは145か所で、「人口密集地」の標的も含まれていた」
- ただし攻撃案は過剰爆撃や恐怖をあおる爆撃ではなかった。少なくとも理論上は。核の狂気の裏には一定の方法論があった。SACの設定した優先順位はソ連空軍力の破壊が第一で、ソ連爆撃機(ICBMがまだ未整備の1960年代のこと)が米本土、欧州の攻撃に出撃できなくする狙いがあった。空軍基地1,100か所が優先攻撃目標となり、Tu-16爆撃機基地が最上位だった。ソ連空軍力を破壊した後はソ連産業基盤が次の攻撃目標だった。
- また一般国民も標的だった。SAC標的リストでは1956年版でまた1959年度核兵器攻撃案で意図的に人口密集地を入れている。
- SAC戦争案では「系統だった破壊をソ連圏の大都市工業地帯に想定し、北京、モスクワ、レニングラード、東ベルリン、ワルシャワを筆頭に都市圏を狙うとしていた」と同団体研究員が解説している。「意図的に大都市圏を標的にすることは今日の国際規範に合わない」
- 文書は800ページにわたり標的リストをABC順に乗せている。SAC立案部門は1959年にB-52、B-47合計2,130機を動員するほか、RB-47偵察機、F-101戦闘機を援護に充てる想定だった。さらに核弾頭付きの巡航ミサイル、爆撃機発射ミサイルが376発あり、一部だが初期の大陸間弾道ミサイルもあった。1959年ではミサイルの命中率は有人爆撃機より劣るとし(ICBMが開発中のため)、あくまでも爆撃機が攻撃の中心だった。
- SACはソ連空軍力を早期に排除する方針で水爆投下は空中ではなく地上で爆発させていただろう。空中爆発の方が熱、放射線の被害は大きくなるが、最大限の爆発効果でソ連空軍の壊滅が重要とされた。その場合、予想外の副次効果は避けられなかったはずだ。「地上爆発で生じる放射線効果や降下物で友軍や同盟国にも影響が及ぶため反対する意見も考慮されたものの、空軍力による勝利を求める動きがすべてに優先していた」とSAC自身が研究内容で認めている。
- ただしSACはソ連空軍力を極めて広範囲にとらえており、指揮命令所の他産業中心地もソ連空軍作戦を支えるとして含めていた。そのため軍事司令部、航空機ミサイル工場、核兵器研究所や石油精製所がすべて網羅されていた。
- 核時代の空軍力とはいえSAC戦略は第二次大戦中のドイツ、日本爆撃作戦に通じるものがあった。ソ連空軍や関連産業施設の攻撃構想はB-17やB-29の作戦同様で、当時のSAC上層部は戦中の関係者が多く、司令官カーティス・リメイもその一人だった)長期戦を覚悟する傾向が見られ、まるでソ連は初期攻撃を受けても爆撃機、核兵器の生産を大量に続けけられると見ているようだった。ミサイルがあまりにも信頼性が低く、頼れるのは有人爆撃機機だけとの考え方はあたかも今日の無人機対有人機論争を思い起こさせる。
- SAC攻撃構想は道理にかなっていたのだろうか。答えを知る必要が生まれなかったのは人類全体にとって幸運なことと言わざるを得ない。■
Michael Peck, a frequent contributor to the National Interest, is a defense and historical writer based in Oregon. His work has appeared in Foreign Policy, WarIsBoring and many other fine publications. He can be found on Twitter and Facebook.
This first appeared in December 2015.
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